2012年6月25日月曜日

昨日のアウトドアハードワーク

昨日は十日町を朝4時過ぎに出てきて、三条でアウトドアハードワークを行いました。

参加表明はゼロでしたが、「毎週日曜日にやってます」と言っているために、facebookとかやっていない人への連絡はほとんどしていないので、誰かが来るかもしれない。

で、予想通り2人来てくれました。


 昨日は下の芝生の公園でクラフトフェアがあったようで、朝行ったときにはテント村ができていました。


近くのばあちゃんからは、「だいぶきれいんなったねぇ」と驚いていましたが、やっている人間としては少しずつすっきりしていくのでよくわかりません。


この間まだタケノコだったやつが竹になって、まだまだ込んでいるけど感じがよくなってきました。

やはり新緑の季節が気持ちいいように、新しいフレッシュな竹は若々しさというか、なんというか、いいなぁと感じます。


若いものにはまっすぐに育ってほしい。若い竹がまっすぐ育つように間伐しているのかもしれませんが、すでに大先輩の竹が立ちはだかっているため、すでに曲がって育っていました。

次はこの先輩の竹に引導を渡してやろうかと思う。炭として次のキャリアを歩んでください。


先週の阪神vs中日のウェスタンリーグの試合。公園もあるし山もあるし、スタジアムもあっていいところです。




2012年6月20日水曜日

日本的だけど異国のように感じる



何日か前の猿倉岳からの景色。これ以上日本っぽい景色はないような気もするが、蒲原平野育ちのオレには異国の雰囲気を感じる。見える集落は種苧原だろうか。タネスハラと読むらしいけど、「タナスハラ」としか聞こえない。異国情緒たっぷりな響き。地元の人の会話の中で、地域名か人の名前か知らないけど、「マッゾゥォ」という不思議な、明らかに日本語の発音とは思えない響きの言葉が出てくる。それもオレが蒲原平野のスワロウシティで生まれ育ったからか。

今日、柿城があったと言われる山から長岡の町を見下ろしているときに、84歳の人になぜこんなに広い平野が山と山の間(柏崎側と悠久山側)にあるのに、人は山を切り開いて棚田を作り、毎日数十キロもの荷物を担いで登り下りして、冬は雪に閉じ込められながらも中山間地域に住んでいるのだろうか?という素朴な質問をした。

その方が言うには、奈良時代あたりには、平野部は川がもっと広く、しかもよく氾濫していて沼のようでとても住めたものではなかったと。戦争直後くらいにも長岡駅の東側とかは池みたいなところで、田んぼも船に乗って水の中に稲を植えていた状態だったと。

千年くらいかけて潅漑を繰り返してきて、今のように人が住めて大規模に農業ができるようになってきたのだと教えてもらいました。

ついでに、大和朝廷時代に新潟や北陸地方が一大文化圏を作ってきたと聞く「高志の国ってどんなところだったんでしょうかね?」とつぶやくと、「山ん中にいたんだろう」と当たり前だろうというような感じでした。

聞いたのは長岡だけの話なので日本全体に当てはめられないけど、もし全国でも同じような理由で人が山の中に住んできていたのだとしたら、山の暮らしこそが日本の文化と言えるのかなと思いました。日本とまで大きな話にならなくても、見たこともなく、詳しい話もよくわからなくて想像もできない高志の国の文化だったんだろうかと無知ならではのワクワク感がある。

2012年6月12日火曜日

暖談森社(だんだんもりもり)の平原さん

6月9日(土)に、暖談森社(だんだんもりもり)の平原さんの果樹園を案内していただいたときのことを、チャコールブラックスのウェブサイトのブログにアップしました。

http://charcoalblacks.org/archives/1401


2012年6月7日木曜日

赤城コマランドへ行ってきました。


始めて「赤城コマランド」へ行ってきました。

ウェブサイトを見た事があるし、何度か通りがかったことがあったけど、「勝手に入っていいものか」と遠慮していたのですが、別のところで里山整備を一緒にやっていた人が「勝手に入ってもいい」 と教えてくれたので行ってみました。






赤城コマランドとは、地元の人たちが里山を守るために作ったもので、最初は狭かったようですが、次々と広げていって、今はログハウスから能楽堂、キャンプサイトまであり、森の幼稚園もやっているようです。

ウェブサイトを見てもよくわかりませんが、下記の記事がうまく紹介しています。

http://www.mlit.go.jp/crd/chisei/image/nagaoka11.pdf

赤城コマランドウェブサイト

http://www.nct9.ne.jp/koma/komalando.htm





 まず入ったところに、ログハウスがあり、そこで子どもやお母さんが遊んでいました。通りがかったときも、たくさんの車があって、多くの子どもとお母さんたちがいました。

ここで森の幼稚園やったら素敵だろうなぁと思っていたら、やはりやっているようです。

森のようちえん ふたばっこ&ねっこぼっこ

http://plaza.rakuten.co.jp/2bacco/




ここは多分バーベキュー場だと思う。ドラム缶みたいなのはくんせい器?




水道も完備。3ヶ所くらいにあるこういう屋根のシートが素晴らしい。




やはりありました。ピザ窯。レンガとかでなく、石造りってのがすごい。

柱のところに「自由」という文字が見えると思いますが、「ご自由にお使いください」と書いてある。なんと心が広い!




子どもが遊べる場所もたくさんあります。







木のブランコ。これだけで、ロマンを感じる。子どもの頃に憧れた。

休みの日なんか相当な子ども達が遊びに来るのだろうか。







ウサギは人が近づいても逃げない。ウサギ小屋があったので、飼っているウサギかな?




たまげたのがこれ。能楽堂。




これにもぶったまげた。3階建ツリーハウス。恐ろしくて登れない。




そして散策路もきちっと整備してある。これだけの森を手入れするのにどれだけの労力と時間がかかったのだろうか。整備しただけでなく、使われているからやりがいがあるし、きれいになっているんだろうか。

コマランドのQ&Aがまた素晴らしく、使う場合は申込みが不要で、人数が多い場合はログハウスの掲示板に書いておけば良いと。ここまで使う人を信頼したやりかたが未来的な感じがする。

コマランドQ&A
http://skoma.web.fc2.com/pdf/koma19.pdf





過去のイベントの記録などが、入口や能楽堂の掲示板にはってあって、縄文キャンプとかも、子供たちで縄文風のテントを作ってやったことがあるようで興味深々。

率直な感想は、とにかくす・ご・い。ということ。天気がよかったこともあって、ここは楽園かと思った。

2012年6月6日水曜日

猿倉岳の萱小屋作り

昨日、猿倉岳のブナ林に萱小屋を作るのを手伝いにいきました。

秋に刈っておいた萱をたくさん運ぶというので、僕も自分の軽トラを出動させて参戦。

軽トラが似合う男を目指していますが、まだまだ体力も知性もスキルも経験も足りなくてほど遠いですが、5台の軽トラキャラバンの中を走っていると、自分もいっぱしの軽トラパイロットになったような気がしました。
 


どうやって建てるのか興味ぶかかったので、自分でも作れるように作業しながらもじっくりと観察&写真撮影してきました。

まずは、クイを形に合わせてぶち込む。







 その中心に柱を立てて、そこに細くてしなりのいい木を切ってきて、バンセンで杭と中心の柱を固定。


いい形にするのがなかなか大変なようす。

「いい形」とか「バランスがいい」とかいろんな意味のある地元言葉を使っていたが、1日経って忘れてしまった。


なかなか美しい。


そこにもっと細い木で横を3段くらいにバンセンで縛り固定。そして運んできた萱で包んでいく。


萱を固定するときは、細い木をしならせて使う。木と木で萱を挟み、固定は縄を裁縫のような感じで、竹を縫物針のようにして使う。


中はこんな感じ。昔使ったやつは雨もあまりもらなかったようですが、今回は結構隙間ができたけど、まっ、いっかと。

完成後はこの中心の柱は切り取り。


テッペンまでロープで固定し、雨を防ぐ。

あまり萱を厚くしてしまうと、雨が漏らなくても蒸し暑くなるようです。


この萱小屋のあるブナ林はこんな感じ。

詳しくはこちら。ぜひ癒されに行ってください。

http://nagaoka-ohta.blogspot.jp/2012/04/blog-post_17.html


 反対側には小さいやつを作る。こっちはわずか2時間ほどで完成。バンセンを使わずにロープをつかったり、中心の柱もいらず、大きさも3分の1くらい。


 完成。一番上には、大きい方には負けなかった藁で作った束みたいなのを取りつけ。


2012年6月4日月曜日

猿倉岳ブナ林の整備

6月1日(金)に、猿倉岳森の会の皆さんと、猿倉岳の山道の整備と、ブナ林の手入れの手伝いに行きました。

山道は、冬の間に雪の重みで倒れた倒木がたくさん道をふさぎ、それを拾って隅へどけるという作業でした。

ブナ林では、草刈りを予定していたようですが、雪がまだ溶けたばかりで草はあまり生えていないので、草刈りはまだ不要だった。


何年も手を入れていない山道の整備をしているけど、けっこう大変なので、これだけ距離のある山道を毎年きれいにしていて、頂上のブナ林までこんなきれいな状態にしているのは単純に尊敬する。



この穴が昔、かじこ焼きをしていたときの穴。

普通の人は冬の燃料に炭なんて高価で使えないので、自分で穴を掘って作っていた。切った木を穴の中で燃やし、熾きになってきたら大量の草をかけ、その上から土をかけ空気穴を少しあけて作っていた。

しかし土窯で作るような炭は作れなく、生焼けも多く出てくるので、こたつの中から大量の煙が出てきたりしていたという。



山頂から見えるのは、越路。