私は多文化共生の夢を見ているが、叶うだろうか。
川口市の小学校、学校ぐるみで“クルド人少女のイジメ事件”隠し
ハーバービジネスオンライン 2019/04/12
こういう記事を読んでしまった。つらい。
私はベトナム人の女性と結婚して、8月に子供が生まれる。子供は見た目も他の日本人の子供とは違うだろうし、妻と私の共通語は英語だけど、ベトナム語と日本語で教育するつもり。
当然、日本に住んで学校に行くことになれば、日本語は最初は他の生徒とは違うだろうし、行動も日本人の子供にとって理解できない馴染めないものになっていくとは思う。
多文化共生の夢を持っていて、そのために技能実習生などの人材を日本に送り出す会社に勤めている。真っ黒なこの業界で、一歩一歩、道を踏み外さずに正しくやってお互いの役に立つように努力している。
その私が自分の子供が日本で住んで学んで、将来仕事をしていくことにものすごい不安を感じていて、今の仕事でやっていることと、自分の子供の将来への気持ちにものすごい矛盾がある。
多文化共生という言葉は言うのは簡単だけど、どの国もまともに行っていないのは事実。数千年もうまくいっていない国や地域もあれば、この数十年間で移民が増えてうまくいっていないところもある。それを「失敗」だとみなす人もいる。
しかし数十年で「失敗」とみなしても良いのだろうかと思う。「世界がひとつになる」というような言葉は美談として語られがちだけど、現在我々が感じている痛みの多くは、グローバリゼーションだのテクノロジーなどによる世界がひとつになっていくものによることが大きいと思う。
しかしこの「世界がひとつになる」という動きは止めるべきものでもなく、止められるものでもない。人類がもし太陽系や銀河を飛び出していけるような科学力を持つことが星としての成熟や人類にとっての幸せにつながるかどうかはわからない。成長し続けること、前へ前へ進んでいくこと、陰から陽に向かうこと、これが宇宙またはこの世の常であると考えているので、こういう困難があろうとも、異なる人同士が知恵を出し合って宇宙へ宇宙へ、知的好奇心を満たしていくのは当然の流れだと思う。
2000年かかっても多文化共生などうまくいっていなかったりする。しかしニュージーランドのように先住民と後から来た人たちがラグビーを通してお互いが尊敬しあっているような話もある(一面だけ切り取った場合。まだまだ課題はあるでしょうが)。
マオリ・オールブラックスは民族紛争の世界史に咲く希望の花だ
他民族を奴隷として使っていたような時代から、一歩一歩、人の権利を守るためのいろいろな思想や法が生まれてきた。我々はまだまだその途上だということはわかっている。
しかしそれでも、このクルド人の生徒のいじめのようなことは、今後日本でもあちこちで行われると思うと心が痛む。外国人に対する偏見などは、まだ外国人に慣れていなく、自分が「差別している側」である当事者意識すらないため、なかなかなくならない。
20年前に私がアメリカに留学したときに「差別されたか」ということを聞かれることがあったが、ワシントン州では全くなかった。(差別されたかどうかわからなかっただけかもしれないが。)。むしろ「日本のほうが外国人に差別しているよ」ということがほとんどだった。
あれから20年。本格的に外国人に向き合う段階に入ってきた。
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