先週の金曜日に新潟の東ロータリークラブ様で、バイオ炭についての講演をさせていただき、その帰りに三条や長岡へ行って、炭を被災地に送るための相談をしてきました。
必用な支援物資の中で「炭」が入っていて、寒い避難所での暖房用や調理用なのですが、新潟は冬の間が雪で炭焼きはオフシーズンなので、すぐに用意できる炭の量はわずかでした。
それで、炭の代わりに自分をトラックに積んでいくことで、その辺にある支援物資の梱包などを利用したTLUDストーブなどを作って、調理に使い、できた炭をそのまま火鉢に入れて室内に使えるのではないかと考えました。
行くかどうか一晩考えて、翌朝の土曜日に、三条で支援物資のとりまとめをして、石巻へトラックで送っているグループのヒゲ職人に電話し、10時くらいに物資を積んで出る便があるということで、それに乗せてもらうことに。
TLUDストーブの作戦が有効でなくても、物資運びや仕分けなどをやるつもりでした。
「山へ道具をとりにいくから、12時くらいにして!」
とお願いして、ちょっと待ってもらえることになり、トラックがつくのもちょうど遅れることになって時間もできました。
しかし、どこかから来たそのトラックに乗っている3人のうち、一人が三条で降りる予定だったのが、そのまま石巻へ行くことになり、夜出るトラックに載せてもらうことになりました。
過程を書いていくとだらだら書いてしまうので、石巻で見てきたことを。
結論から言うと、燃料としての炭や、薪などを燃やすストーブが必用な時期はすでに過ぎていて、暖房がなくて寒いですが、毛布はかなりいきわたっていて、津波で油が回りに広がっているところもあり、外で火を焚くことができない場所もあり、山にいる人などはすでにペール缶などでストーブを作って燃やしていました。カセットコンロも集まってきていて、家に残っている人たちはプロパンガスが使えるところも多かったです。
そのため、一緒にいったアツさんと、名前忘れてすみませんが、ずっと運転してくれた人と避難所を回って物資を届けてきました。
災害ボランティアセンターのある石巻専修大学に拠点をかまえた「め組JAPAN」という団体の活動で積んできた物資をトラックで避難所を回って届けました。
ここに書くことは、日曜日、月曜日の話で、1日で状況がかなり変わっているので、必用な支援とかも変わっているので、そのつもりで読んでください。また、行ったところも限られているため、ここに書いていることはほんの状況の一部分です。
回ってみると、結構避難所には物資が届いているような感じでした。
多分、災害の最初の頃は、
「物は送るな。人は行くな。」
という意見が多かったため、物も、それを仕分けて配布していく人も限られていたため、民間による物資の到着が遅れて、その後、かなり食料や毛布などを含めた物資が不足しているという情報になり、全国でかき集めて仕分けしていたのが木曜や金曜で、到着し始めたのが土曜日や日曜日だったので、その日はある意味、物資ラッシュだったと思います。
どこに行っても「十分足りている。」ということで、必用なものを聞くと、「ガソリンや灯油、それに肌着」という回答でした。
みんなずっと着替えていないし、風呂にも入っていなかったので、肌着はかなり貴重でした。
避難所には物資が届いていても、家に残っている人たちは、避難所から物や食料をもらうのを遠慮したりできなかったりするので、地域の集会所みたいなところに届けると、やっぱり食べるものとかもないし、被害の激しいところから避難してきた人たちを自宅に受け入れたりしていたので、毛布や布団とかも不足しているということで、大変ありがたがられました。
避難所も、リストにも乗っていない、近所の人たちが集まっている避難所などがあり、翌日はそういうところを聞き込みして訪問してみると、月曜に訪問したときに、避難所などから食べ物をもらえなかったため、前日まで食べるものがなく、お菓子を食べてしのいだと言っていました。
そんな話をしている中で、そこに煮卵があり、それを熱心に食べろと勧められて、腹が減っていたしおいしそうだったので喉から手が出るほど食べたかったのですが、必死にこらえました。
いろいろな状況の人がいて、
すべてを失った人がいれば、1階や車だけ失った人、地震の被害だけの人とかで、支援は結構、「一番必要としている人に...」となりがちですが、あまり失っていないけど、食べるものが全くない人とかもいて、「一番必用としている」というのをひとくくりでは言うことができません。
その隙間を埋めていくのが、民間の活動だと思っています。
感想としては、災害のときはいつもそうですが、メディアやネットの情報などを見ていると、「被災地」「被災者」などとひとくくりになり、「無力な存在」という感じに思ってしまいますが、実際は、上に書いたような様々な立場の人たちが混在しているため、自宅の復旧作業とかのために人がかなり動き回っていて、エネルギッシュな感じでした。
親しい人たちを亡くしている人たちも多かったけど、「生きている私たちがなんとかしなきゃね」という言葉も聞き、強さも感じました。
自宅の1階が水没して、袋小路なので車が3台も玄関前に流れてきたという、食べるものがない中でも毎日自宅の泥出しとかをしていて、避難所で寝泊りしている方が
「災害になるとボランティアが来るのに、私たちのところは来てくれないんでしょうかね?」
と聞いてきました。
ボランティアセンターも立ち上がり、登録者も何百人とその日だけであったようですが、情報が届いていないのと、必用な人と結びつけるマッチングにまで至っていないのもあります。
いつも災害のときに思うことですが、阪神淡路大震災のときに、物が集まりすぎたとか、ボランティアが来すぎたとかということを「2次災害」とラベル付けして、それがその後もいくつもの災害を経験するなかで、余計強くなってしまい、ネットで情報や意見がすぐに流れるようになり、阪神淡路の「2次災害」のフィルターを通して物事を見ることになってきたために、今回は支援が大きく遅れたように思います。
「あのときこうだったからこうだろう」
という過去の経験のフィルターを通したダウンローディング的な考えを前提とした対応は、一度全てのタブーを取り払い、「今すぐ物資と人が必要」と「2次災害」という矛盾した状況の中で、見直していかなければならないと思います。
そんな意見なんかはともかく、今後は何ができるかということですが、実際に被災地を見るまではごちゃごちゃといろいろと考えていたのですが、炭を焼いて、それは避難所でも、仮設住宅に入ったあとでも、農地などを復活させるためにも使えるし、防災という面からも、災害直後の数日間に使える大切なノウハウが詰まっているので、その方面の活動をしていきたいと考えています。
帰りは郡山経由で帰ってきたのですが、知ってはいたものの驚いたのが、宮城の石巻での大きな被害を見て、180キロほどを3時間くらい運転してついた郡山も電車も走っていなければ、店も開いていない、街には明かりがついていないというのを見て、どれだけ被害を受けた地域が広いかというのを実感しました。
夜遅くと早朝だったためか、石巻で感じたようなエネルギーは感じず、ちょっと違う感じがありました。電車の動いていない駅では、多くの人が大きなかばんを持ってバス停の列にならんでいて、家族連れの方々も、お父さんはバスを見送り、子供と奥さんはバスに乗るという光景も多く、原発への不安が暗い影を作っているように感じました。
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