2013年8月23日金曜日

評論家が異なる意見をちゃんと聞いているのを見て、心の広さというか思考の整理ボックスの整然さだか何かを感じた。

評論家とかをバカにしていたりするけど、たまにすごいなぁと思うのは司会もできるような評論家。

個人的に私はあまり心の広いほうではないため、自分とは明らかに違う考えをもつヘイトスピーチだとか、右や左に触れたような意見やそれを遂行するためのやり方など、見ていてイヤだなぁと思うものは衝突するのも気が滅入るので、自然と基本的に世の中からなくなって欲しいと考えている。

しかしたまにすごいなぁと思う評論家の先生方は、自分の意見を言うときには人から見たら極論を吐いているように見えるが、結構違う意見にも許容範囲が広いように感じる。というのも、自分の意見を形成するためのプロセスで一方の立場からではなく、様々な立場の人たちの意見を聞いて、資料を読んで、その結果の自分の意見なんだろう。

あるメーリングリストで、トピックはなんだったか忘れましたが、ハタから見ていて気が滅入るような、2つの異なる立場からの「これが正しい!」「あんたは間違っている!」「こうするべきだ」というような激論があり、だんだん人格否定のようにまでなったことがあり、周囲の人たちが、「こういうことは外でやれ!」のようなそれも過激な言い回しのメールが出てきました。

そのテーマを振ったのは有名な評論家というか大学の先生みたいな人で、この先生はいったいどうやってこの件を解決するんだろうかと興味深く見ていたら、

「どんな意見であっても議論を止めてはならない」

というようなことをいい、どちらの意見も否定しなく、むしろ否定したのは、「ここでこういう話をすんな!」「外でやれ!」という意見のほうでした。

極端な反原発の人が、政府や東電などの原発再稼動を目指す人の言うことは、「ウソをついているに違いない」「金目当てだ!」「陰謀だ!」といって、最初から聞く耳持たない場合がある。

原発だけでなく、自分の場合は右翼的な思想がどうも受けつけられないので、相手の立場の意見を受け止める前に放棄している場合がある。

しかし相手の立場になって考えたからといって、自分の意思などまで変えるというわけではなく、違う視点で考える材料をいただいたこと、そして自分と異なる考えの人が目の前にいるという事実を認めることが大切なのだと思う。

なんだか知らんけど、つい白か黒か的な判断をしたがるし、求められたり、それ以外の方法を知らなかったりする。

日本の戦争の歴史の完全肯定派と完全否定派に分かれること。まあ戦時中の日本のやったことに感謝している国もあれば、今でも怒りが収まらない、傷がいえない人たちもいるので、それを見ると白か黒かしかないような気にもなる。

そのときの国際状況の中で、帝国化して外にでなければ自国を守れなかったというのもあるし、当時の空気に流され続けた政治やマスコミ、そして今の日本の色んな組織とかにあると思うけど、責任の所在がわからないとか、コミュニケーション不在なこととか、もしかしたら意図はよかったかもしれないが、プロセスのあちこちで破綻がおきていてそれによって自国の人を含めて多くの人に迷惑をかけたのではという個別、全体を別別の視点で見たときの仮説も成り立つのではないかと思う。

「今の日本にアホがあふれているのは、戦後教育のせいだ!戦前教育は素晴らしい日本人をつくった」

という意見もたまに見ますが、そもそも今の日本人がアホで、戦前はアホでなかったということが事実かどうかということから検証して、もし今の日本人がアホなら、それは環境もテクノロジーも全然違う中に生きてきている中で、本当に教育だけが原因なのだろうかということを考える。

また、戦前教育の中の教育勅語とかも多分いいことが書いてあるのだろうけど、暗記が心から大嫌いな私が暗記して、間違えたらぶったたかれるというのを、本当に望めるだろうか。

こういう異なる意見とかを含めて分解とか統合のプロセスを通して考えるのは他の分野ではあたりまえのことなんだろうけど、何かイデオロギー的なことや、激しい主義主張がある場合はできなくなってしまうという自分を外から眺めて、異なる意見からまた違う自分の意見を作り出す。それがなかなか難しいのは、多分変わることって無意識のうちにいやなんだろうなと思う。

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